2009年07月01日

中国共産党は党における最終目標

中国共産党は党における最終目標と最高の理想を共産主義で実現することとしている(中国共産党規約 中国共産党第十七回全国代表大会で一部改正の上、2007年10月21日採択)。よって、中華人民共和国は現在共産主義を実現するための初級段階として社会主義を行っている。

社会主義は共産主義の初級段階であるため、中華人民共和国の政権政党として党規約に基づいて、現在は国防及び科学、工業及び農業技術の現代化を実現し、国を富ませ強くし、民主的かつ文明的な国を建設することで共産主義の実現を目指している。

2007年現在、指導思想として、マルクス・レーニン主義(マルクス主義)、毛沢東思想、鄧小平理論、さらに江沢民が提唱した思想理論「3つの代表」思想と胡錦濤が提出した「科学的発展観」を掲げている。
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宗教には否定的で、文化大革命当時、「宗教はアヘンである」というマルクスの言葉に忠実な紅衛兵によって聖職者は弾圧され、宗教施設は破壊行為により甚大な被害を受けた。 文革終了後、民族間関係の緊張を危惧した共産党は宗教政策を修正し、一定程度の宗教活動を保障し、宗教施設も修復されるようになった。党はこれをもって「信仰の自由が保障されている」と主張しているが、依然、「民族分裂主義者」として厳しく糾弾するダライ・ラマの写真を掲げることは禁止され、メッカ巡礼も自由に行えないなど、宗教に対する締め付けは残存していて、あくまでも当局の管理下においてしか宗教活動は行えない。

中華人民共和国は民主主義国家ではなく、中国共産党の一党独裁体制である。反対政党がない独裁体制のため共産党が打ち出した政策は迅速に発令される(反対政党が事実上存在しないため)。そのために中国共産党は、「自党に都合の悪い」と判断した出版物や各メディアに対する閲覧や出版や公開停止などの厳格なメディア統制をしている。経済が発展した今でも、マスメディアを利用して愛国教育や反日報道・ドラマをして言論統制をしている。

2009年06月13日

前期量子論(ぜんきりょうしろん、Old quantum theory)

前期量子論(ぜんきりょうしろん、Old quantum theory)とは古典力学(統計力学)の時代から、ハイゼンベルク、シュレーディンガー等による本格的な量子力学の構築が始まるまで(1920年代中頃)の、過渡期に現れた量子効果に関しての一連の理論をいう。

量子力学成立以前の物理学において、物体の運動はニュートンの運動方程式によって説明されていた。18世紀に産業革命がはじまるとニュートン力学はただちに機械工学に応用されはじめた。毛織物などの軽工業、鉱山での採掘などで用いるために蒸気機関が発明されると、熱機関の改良にともなって熱力学が発展した。やがて、ニュートン力学によって熱力学を説明する試みによって初期の統計力学が構築された。
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産業革命がやがて製鉄などの重工業に広がりをみせるとキルヒホッフは溶鉱炉の研究から1859年に黒体放射を発見した。黒体放射のスペクトルの理論的研究は、統計力学と結びつくことによって量子力学の基礎となる理論を与え、最終的にプランクによってプランク分布が発見された。物理的に黒体放射をプランク分布で説明するためには、黒体が電磁波を放出する(電気双極子が振動する)ときの振動子のエネルギーが離散的な値をとることを仮定する必要がある(量子化の概念、プランク定数の導入。詳細は黒体放射の項を参照のこと)。

ファラデーやガウスが幾何学的考察から見出した電磁力に関する法則をマクスウェルが1864年にマクスウェルの方程式としてまとめ、電磁波の存在を予想した。1887年にこの予想に基づいてグスタフ・ヘルツが電磁波の実証実験に成功し、無線の発明の基礎を与えた。さらに、この実験の中で後の量子力学の端緒のひとつとなった光電効果を発見した。光電効果はその後レーナルトらによって実験的研究が進められた。

1905年にアインシュタインは、プランクの用いた量子化の概念を用いて、電磁波に粒子としての性質があること(光量子仮説)を発表した。1923年にコンプトンが電子によるX線の散乱においてコンプトン効果を発見したことで有力な証拠を得た

逆に電子のような粒子にも波としての性質があると予想され(1927年、ルイ・ド・ブロイによる物質波の概念)実証された。物質波の概念もまた、1927年にトムソンやダヴィソンによる実験によって支持された。また1928年には日本の菊池正士も雲母の薄膜による電子線の干渉現象を観察して、電子が波動性をもっていることを示している。この粒子としての性質と波としての性質をもった何かという概念は量子力学成立以前の物理学では、全く考えられていなかったものであった。

原子モデルについての議論もまた量子力学に重要な知見を与えた。ファラデーが電気分解の実験によってイオンの存在を指摘し、やがて荷電粒子によって原子が構成されていることが認められるようになったが、荷電粒子によって構成される原子モデルをニュートンの運動方程式やマクスウェルの方程式と矛盾せずに構築することができなかった。1913年にボーアは、この問題に大胆な仮定(ボーアの量子条件)を導入することによって新たな原子モデルを提案し、水素原子の離散的なスペクトルなどを説明した。ボーアの提案した原子モデルで電子を物質波としてみた場合、「原子核の周囲を回る電子の物質波が定常波であるための条件」と解釈できた。つまりボーアの量子条件は電子が波としてふるまっていることを示唆しており、物質波の概念を強く支持した。

前期量子論が、(ニュートン力学的な)粒子としての性質と(マクスウェルの電磁気学的な)波としての性質をもった量子という概念の発見であるとすれば、ハイゼンベルク、シュレーディンガー等による量子力学の基本方程式の構築は、マクスウェルの方程式とニュートンの運動方程式を統合したものであるといえる。

2009年06月08日

サブリミナル効果

サブリミナル効果(-こうか)は潜在意識、意識と潜在意識の境界領域に刺激を与える事で表れるとされる効果。ただし科学的にはまだ証明されておらず、効果を疑問視する学者も多い。映画やテレビ放送などでは、使用を禁止されている。

歴史は古く、19世紀半ばから実証研究が始まった。当初は知覚心理学だけの領域であったが、現在は広告研究、感情研究、社会心理学、臨床心理学等幅広く様々な関心から研究されている。未だに謎は多いが、長年の研究の蓄積は大きい。
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1957年にマーケティング業のジェームズ・ヴィカリが、ニュージャージー州フォートリーの映画館で上映された映画「ピクニック」のフィルムに「コーラを飲め」「ポップコーンを食べろ」とメッセージが写ったコマを5分ごとに繰り返し挿入し、売上に影響があるかを測定した実験が有名である。フィルムの一コマを人間が認識する事は不可能と考えられる(後述)が、この映画を上映したところコーラとポップコーンの売上が増大したとされる。だがこの実験がどのような環境で行われたか、アメリカ広告調査機構の要請にも関らず、きちんとした論文は存在しない。1962年、ヴィカリ自ら「マスコミに情報が漏れ過ぎた。実験には十分なデータが集まっていなかった」と実験結果の懐疑性を告白している。そもそも、この実験自体が実際に行われた証拠がジェームズ・ヴィカリの証言以外になく、映像技術的にも当時の技術水準では難しいと考えられ、創作話もしくはメタファーであった可能性が高い。

2009年04月24日

P-T境界

P-T境界(ぴーてぃーきょうかい)とは地質年代区分の用語で、約2億5,000万年前の古生代と中生代の境目に相当する。古生物学上では史上最大級の大量絶滅が発生したことで知られている。

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古生代最後のペルム紀(Permian)と中生代最初の三畳紀(Triassic)の境目なので、両者の頭文字を取って「P-T境界」と命名された。なお恐竜絶滅で有名な白亜紀(Kreide:ドイツ語)と新生代第三紀(Tertiary)の境目はK-T境界と呼ばれている。K-T境界は直径約10kmの巨大隕石がユカタン半島付近に落下したことが大量絶滅の原因として有力視されているが、P-T境界では地球内部を原因とする環境変化の要因が高いと考えられている。(当時地球に大きな隕石が落下した証拠が発見され始めたが、この時の隕石落下と大量絶滅の因果関係は明らかにされていない)

一般に古生代の陸上生物は両生類や単弓類、中生代は恐竜に代表される爬虫類の時代と言われている。P-T境界はこの交代の原因となった大量絶滅事件である。絶滅した生物種はK-T境界よりはるかに多かった。例えばペルム紀末に海中に住んでいた海棲無脊椎動物の種レベルでの絶滅率は90%以上と見積もられている。この中には三葉虫・古生代型サンゴ・フズリナなど古生代に幅広く棲息していた生物種が含まれる。その他、脊椎動物・昆虫・植物などの陸上生物もたくさんの種類が絶滅した。総合的に全生物の95%以上が絶滅した。

超大陸の形成と分裂
2.5億年前、地表に存在するほとんど全ての陸地が1か所に集合して超大陸パンゲアを形成した。パンゲア以外の地表はひとつの大きな海パンサラッサとなった。なおパンゲア大陸内部の地中海としてテチス海が存在した。一旦形成された超大陸パンゲアはすぐに分裂を始めたが、その際大規模な火山活動がありシベリア台地玄武岩が形成された。超大陸の形成と分裂については、プルームテクトニクスによる理論化が行われている。

2009年04月07日

ザ・ワイルドワンズ

ザ・ワイルドワンズ(The Wild Ones)は、日本のグループ・サウンズを代表するバンドの一つ。

来歴 [編集]
加瀬邦彦がキャノンボール、ザ・スパイダース、寺内タケシとブルージーンズを経て平凡パンチに募集記事を載せ、メンバーを集め結成された。慶應義塾大学の先輩でもある親交の深い加山雄三によって、『野生児』という意味を込めてグループ名が命名された。

1966年11月に『想い出の渚』で東芝音楽工業(現・EMIミュージック・ジャパン)からデビューを果たす。

1968年1月にグループの音楽性発展の為、当時16歳だった渡辺茂樹がキーボード&フルートとして加入。

1971年に一時解散したが、1981年1月の“さよなら日劇ウエスタン・カーニバル”にメンバー5人が勢揃いして出演したのをきっかけにして再結成話が持ち上がり、仕事の都合で参加を見送った渡辺茂樹を除く、オリジナルメンバー4人で加瀬邦彦とザ・ワイルドワンズ再結成に踏み切った。

1990年代には、峠恵子など女性2名を一時加入させて活躍。また、「ウッチャンナンチャンのやるならやらねば!」のコーナー「加山雄三(くわやま・ゆうぞう)ショー」で、加山雄三のものまねでエレキを弾く南原清隆のバックバンドで出演。現在も日本全国でコンサート活動をこなす。他には、鳥塚しげき、植田芳暁、島英二と、個々の活動でも個性が光るメンバーがいる。一時期、ドリンク剤のCMでコミカルなキャラクターでも人気が出た。

2006年11月2日、結成40周年記念ライブを初の日本武道館にて開催した。

2008年には初の全国ツアーを決行する。

メンバー [編集]
加瀬邦彦(リーダー / リードギター)
鳥塚繁樹(サイドギター)
島英二(ベースギター)
植田芳暁(ドラムス)
渡辺茂樹(キーボード / フルート)

代表曲 [編集]
想い出の渚(下とともにデビュー曲。1966年11月5日発売。1976年に「鳥塚しげき&メモリー・ハウス」としてリメイク盤が発売)
ユア・ベイビー
小さな倖せ
夕陽と共に
風よつたえて
青空のある限り
愛するアニタ
バラの恋人
マーシー・マイ・ラヴ
花のヤングタウン
青い果実(フルーツ)
貝殻の夏
赤い靴のマリア
あの頃
この街のどこかで
白い水平線
ハート燃えて愛になれ(テレビ朝日「私鉄沿線97分署」オープニングテーマ)
涙色のイヤリング(テレビ朝日「私鉄沿線97分署」エンディングテーマ)
黄昏れが海を染めても
懐かしきラブソング
星の恋人たち
幸せのドアー
愛することからはじめよう
あなたのいる空

その他 [編集]
渡辺プロダクション創立50周年事業として、展覧会「抱えきれない夢 Pocketful Of Dreams」が2005年12月23日より2006年1月15日まで東京都千代田区の丸ビルで開催され、会場では加瀬邦彦が当時実際に使用したギターが展示された。

おっくうこ リモデル ユズ ミドル マナ マスク スギラ フラフー フライング バスター コブラ フランジ モンキ 水平線 ジンジャー テーゼ なんぶ セリンリン アランス トブツ マイスタ オレゴンオイ ビヌーボー シルバ トレサパ プロセニ フィンエァ デフォルト ブギウギ ソマリア かぶき バイタル ガーネット ミラーボ ケンタウ バラライカ セクサ マダガス バチスト サポナリア ハンドル ストック スファレ イ長調 ミナレ ならく たびだち イージス スリリース ピクルス


2009年03月23日

1次車 3501F - 3504F

1991年より犬山線などに暫定的に投入されていた100系200番台が本来の使用目的である名古屋市交通局(名古屋市営地下鉄)鶴舞線への直通運用に充当されることになったため、その代替用として1993年6月から7月にかけて4本16両が製造された。当初はまだ3100系が製造されておらず本系列自体も車両数が少なく柔軟な運用が組みにくかった[12]ため、急行にはあまり運用されず普通列車を中心に運用されていた。
このグループのみ6000系などと同じ従来型の列車無線アンテナを装備する。なお、本系列の全体定員は座席を切り詰めたことにより100系[13]よりも僅かに多くなっている。
2次車 3505F - 3511F
1994年3月から4月にかけて7本28両が製造された。1次車と基本的に同じ仕様であるが、このグループより列車無線アンテナの形状が変わり以後の新造車両ではこのタイプのものが採用されている。
3509Fの岐阜方先頭車のク3609は1995年9月より試験的に折り畳み式補助椅子を設置し翌年の増備車で採用された他、1997年には3509Fの他の3両と3508Fにも設置された。また、3509Fは2000年に本系列としては最初に英字併記方向幕に交換された。このグループの落成により、当時新岐阜→東岡崎間[14]に平日の朝に1本だけ残っていた全車一般席特急[15]の運用にも就くようになった。
3次車 3512F - 3521F
1995年4月に3512F - 3517F、6月に3518F - 3521Fの計10本40両が製造された。このうち3517Fまでは2次車までと同様、制御装置、主電動機ともに東洋電機製のものを装備するが、3518Fと3519Fは制御装置に東芝製、主電動機に三菱製のものを、3520Fと3521Fは制御装置、主電動機ともに三菱製のものが新たに採用され、変調音が少々変化しているほか、1995年以降からの東洋電機製造のVVVFインバータ装置などの電装品には、会社名を表すTDK刻印ロゴから、プレート式のものに変更となった。
この増備で、広見線新可児 - 御嵩間や尾西線新一宮 - 森上間など支線にも入線するようになった。ちなみに1995年の名鉄での新製車両は本系列のみでクロスシート車の新製が皆無であった。この3次車導入により、6000系16両が瀬戸線に転属、3780系の一部が代替廃車された。
4次車 3522F - 3526F
1996年2月に6本24両が製造された。ク3609でテストされていた折り畳み式補助椅子が本格採用され、各車両に8名分ずつ設置された。またドアチャイムが設置され、以後の新造車で標準装備となったほか、6000系などの一部の車両にも改造で取り付けられた。さらには冷房装置を低騒音型のものに、冷房装置などサービス機器に電力を供給するSIVをGTOサイリスタ方式からIGBT方式のものに変更した。
室内では天井中央部の高さが僅か1cmであるが高くなった。なお、全編成とも制御装置、主電動機ともに東洋電機製である。
5次車 3527F - 3534F
ブリザード キング スイート アクター タッパー フリーズ 国道日 コピー ノルウェー ケーワイ スラック コスト ナース デビル スレンダ スパナ てらつつき ジェイ メラノーマ オーイー フォトグ クラッチ テリト キンシバイ ムラサキ オブジェク フィニ スベリン ビーズ ピュア カナッペ プレーグ すりはく ベスビア レーム ひっす フライ スタート ション パルメ メション ヘルプ ハイブ ロスカット イカーゴ フロー マグノリ 小夜時雨 サモエード ナビテラ

1996年4月に8編成32両が製造された。
基本的に4次車と同じ仕様であるが、このうちの3529F - 3532Fでは制御装置に東芝製、主電動機に三菱製のものを、3533Fと3534Fでは制御装置・主電動機ともに三菱製のものを装備する。3534Fの豊橋方2両は落成時から1か月ほどの間、モノリンク式ボルスタレス台車が試用されていた。2008年1月時点ではク3534のみこの時とは別の密閉軸受式モノリンク台車を試験装着している。
上記4次車とこの5次車の増備により、6000系の5 - 8次車の中間車のみ12両の瀬戸線転属HL車全廃・旧800形営業運転終了・7300系の一部廃車といった動きがあり、名鉄の1500V線区での冷房化率は100%となった[16] 。さらに、6000系の豊橋駅への定期運用が消滅した[17]。
この増備をもって本系列の製造は終了し、1997年からの新製は下記の3700系となった。

2009年03月07日

ベインブリッジ (原子力ミサイル巡洋艦)

ベインブリッジ(USS Bainbridge, DLGN-25/CGN-25)は、アメリカ海軍のミサイル巡洋艦。当初、嚮導ミサイルフリゲート(DLGN)として計画されたが、1975年に、ミサイル巡洋艦に改められた。本艦はリーヒ級ミサイル巡洋艦の主機を原子炉に変更した艦で、海軍が運用する艦艇の中で原子力機関を使用する最小の艦艇であった。

艦歴
ベインブリッジはマサチューセッツ州クインシー、ベスレヘム・スチール社のフォアリバー造船所で建造。1962年に就役し、1963年2月までにカリブ海で慣熟航海を行った。翌年、原子力空母「エンタープライズ」(USS Enterprise, CVN-65)、原子力ミサイル巡洋艦「ロングビーチ」(USS Long Beach, CGN-9)らと第1原子力機動部隊(Task Force 1)を編成し、7月31日からシー・オービット作戦に従事した。

1965年10月、ベインブリッジは第7艦隊のミサイル巡洋艦として11回目の航海で再び西太平洋から喜望峰をまわった。関係が悪化したベトナム近海に配置され、多数の作戦に従事した(ベトナム戦争)。ベインブリッジはレーダー・ピケット艦として航空母艦の前衛を担当し、捜索・救出作戦を行った。

6月に新しい母港であるカリフォルニア州のロングビーチに入港し、1966年から1967年、1969年、1970年、1971年、1972年から1973年と5回に渡ってベトナム戦争など極東で作戦に従事した。また、1970年にはインド洋にも航海した。

1967年から1968年にかけてベインブリッジはオーバーホール(解体検査)と最初の核燃料補給を実施した。1973年11月から極東での7回目の航海を行い、インド洋を通過してアラビア海まで入った。

ベインブリッジはオーバーホール、近代化改装など広範囲に渡る工事のため、1974年6月から1976年9月までドックに入渠した。1975年6月、工事中にフリゲートから巡洋艦(CGN-25)に類別変更された。工事完了後は第7艦隊に配置され、1978年1月から8月まで担当地域内の日本、韓国、タイ、シンガポール、オーストラリアなどを訪れた。1979年から1980年、1981年、1982年から1983年、と西太平洋海域共同調査(WestPAC)のツアーを3回こなした。また、その期間中にインド洋およびアラビア海で作戦行動も行った。1982年にベインブリッジはマージョリー・ステレット戦艦基金賞を受賞した。
トウワ マリンシャ パスネ マイル 琴の波 日本検索 ジュピター ライム ティーカ トラック パワステ カラー ミューズ レイオフ テレホ レイヤ チャイナ ダリー バッケン セル ハイスク チャリス おおみ ウバイド ドレープ ぎおんうお かぼちゃ レコアダー フィール もちは チキン ブーバル つれあい マスカレ りざや ルマガ 伊予緋 すぺあみ スケルト 十二単 ストライプ ヒラタケ 仮面 エゴイス ゼノタイ クロスセル ドアマン パンダ アケミス サラサ

年から1985年までベインブリッジは最後の核燃料を補給するオーバーホールを行い、スタンダードミサイルやCIWSなどの火器が増設された。その後、太平洋を去って、大西洋艦隊に編入され、パナマ運河を通過した。1986年から1987年までのカリブ海における麻薬密輸のパトロールを手始めに、1988年から1989年に紅海、ペルシャ湾で作戦行動に従事、1991年から1992年、地中海リビア沖で攻撃作戦に従事した。

1994年、大西洋艦隊の海上部隊旗艦となったが、その任務を最後に1995年10月、予備役の保管船としてモスボール状態となり、1996年9月に退役した。

2009年02月19日

宇宙艦隊(うちゅうかんたい)

宇宙艦隊(うちゅうかんたい)は、宇宙空間における戦闘用艦艇で構成される架空の艦隊である。
フラッド キャロ メッカ 輝きの季節 テアーゼ 上位シーン 枕千鳥 フェラテ マドラス ロマン カーボン ランク ソーホー タンプ パーティー タック ルトップ ハバナ スプレッ エンド オキサ スフマート らくだいろ ブタン カゲル キタス スタジャン ランチ シーネ ネッキ アビリテ オルガス ばなな みなせ クローバー キジムシ ガマ対策 モンテ ローコード コック ツァボラ メーター ごぼう ピギー ランナー エルシー こもづの チャド かてい ブルジュド

主に宇宙戦艦や宇宙空母、宇宙戦闘機などから成り、宇宙戦争(星間戦争)を扱った様々なSF作品に登場する。

宇宙艦隊(Starfleet)は、2161年の惑星連邦設立(成立)と同時に、当時、地球連合の組織であった宇宙艦隊を発展解消、惑星連邦宇宙艦隊として発足した。惑星連邦の宇宙調査、外交、防衛を担う組織である。本部と宇宙艦隊アカデミー(宇宙艦隊の士官学校にあたる)を地球・サンフランシスコに置いている。

設立の経緯から、幹部には地球人、バルカン人が多い。

「宇宙艦隊に所属する宇宙船とその乗組員は、いかなる社会に対してもその正常な発展への介入を禁止する」という「艦隊の誓い」は、宇宙艦隊と惑星連邦の基本方針である。

スタートレック世界での宇宙艦隊は他の同種の組織とは異なり、惑星連邦防衛という軍隊としての機能の他に、外交や未知宙域の探査、科学調査等の非軍事的な機能も有している。

機構
本部(Starfleet Headquarters)
司令部(Starfleet Command)
医療部(Starfleet Medical)
機関部(Starfleet Engineering Corps)
情報部(Starfleet Intelligence)
宇宙艦隊アカデミー(Starfleet Academy)
セクション31 (Section 31)

歴史
2161年 設立

階級
提督(階級章はプレートにランクピンをはめ込んだもの。両襟に付ける【】内は階級章。実際は金色)

元帥(Fleet Admiral)【●●●●●】宇宙艦隊司令官
大将(Admiral)【●●●●】
中将(Vice Admiral)【●●●】宙域全体の艦隊統括司令官、大規模宇宙基地の司令官
少将(Rear Admiral)【●●】 艦隊司令官、大規模宇宙基地の司令官
准将(Commodore)【●】艦隊司令官、大規模宇宙基地の司令官
士官(【】内は階級章。実際は金色。○は中央が黒く塗られている。)

大佐(Captain)【●●●●】→ 宇宙艦の艦長、宇宙基地の司令官
中佐(Commander)【●●●】→ 大型宇宙艦の副長、大型宇宙艦の機関部長、保安部長、医療部長などの責任者、
                 宇宙基地の司令官

少佐(Lieutenant Commander)【●●○】→中小宇宙艦の副長、機関部長や保安部長、医療部長などの責任者
大尉(Lieutenant)【●●】→ 少佐が不在の場合、中小宇宙艦の副長、部長を務める事がある。
中尉(Lieutenant Junior Grade)【●○】→ 操舵士、機関部員、保安部員などの実働要員の主任
少尉(Ensign)【●】→ 宇宙艦隊アカデミーを出た直後の階級。職務は中尉に同じ。
士官候補生(CADET)【階級章無し】→宇宙艦隊アカデミー在学中。艦長任命や研修などで少尉と同様の職務を行う場合                   がある。同様の職位に艦長任命の少尉代理がある。
下士官・乗組員
准尉(Chief Petty Officer)【○】
一曹(Petty Officer 1st Class)【以下は階級章無し】
二曹(Petty Officer 2nd Class)
三曹(Petty Officer 3rd Class)
一等乗組員(Crewman First Class)
二等乗組員(Crewman)
三等乗組員(Recruit)

銀河英雄伝説の宇宙艦隊
田中芳樹原作の小説「銀河英雄伝説」や、そのアニメ版に登場する宇宙艦隊。

銀河帝国軍艦隊
ここでは、一部例外を除いて物語開始時のゴールデンバウム王朝銀河帝国の宇宙艦隊を指すものとする。

基本的に銀河帝国皇帝を最高司令官とし、軍務尚書(現役の軍人が就任する)、統帥本部総長、宇宙艦隊司令長官(帝国軍三長官)が皇帝の下で帝国軍、宇宙艦隊の軍政、軍令を統括する。

帝国軍の実質的な主戦力であり、およそ1万から1万5000隻の戦闘艦、輸送艦、工作艦、医療艦等及び、100万から200万人の将兵で一個艦隊が形成される。< 通常、中将を持って一個艦隊司令官とされるが、帝国軍ではその他にも大将が一個艦隊司令官となる場合もある。また、数個艦隊からなる宇宙艦隊の司令官には帝国元帥や上級大将がその任を負う。その他に、一個艦隊に満たない少数艦隊(分艦隊と呼称)の司令官には、准将や少将が就任することが多い。これらの艦隊司令官を、「提督」と称する。

銀河帝国ではおよそ18個艦隊が常備戦力として保持されている他、イゼルローン要塞駐留艦隊(1万5000隻、司令官は大将)等も存在する。

艦隊名称
銀河帝国軍では艦隊の名称に、艦隊司令官の姓を当てはめることが多い。

「例:グリンメルスハウゼン艦隊、司令官リヒャルト・フォン・グリンメルスハウゼン中将」

自由惑星同盟軍艦隊
ここでは、一部例外を除いて物語開始時の自由惑星同盟の保有する宇宙艦隊を指すものとする。

自由惑星同盟最高評議会議長を最高司令官とし、国防委員長、統合作戦本部長、宇宙艦隊司令長官が同盟軍、宇宙艦隊の軍政、軍令を統括する。英語による表記は「FREE PLANETS STAR FLEET」。

同盟軍の実質的な主戦力であり、およそ1万から1万5000隻の戦闘艦、輸送艦、工作艦、医療艦等及び、100万から200万人の将兵で一個艦隊が形成される。通常、中将を持って一個艦隊司令官とされる。また、数個艦隊からなる宇宙艦隊群の司令官には元帥や大将がその任を負う。その他に、一個艦隊に満たない少数艦隊(帝国軍と同様に分艦隊と呼称される)の司令官には、准将や少将が就任することが多い。これらの艦隊司令官を「提督」と称する。

自由惑星同盟ではおよそ12個艦隊が常備戦力として保持されている他、各星系警備艦隊等が配備されている。

艦隊名称
自由惑星同盟軍では艦隊の名称に、番号が割り当てられている。

「例:第五艦隊、司令官アレクサンドル・ビュコック中将」
また、例外的に艦隊司令官の姓を当てはめることもある。

「例:ヤン艦隊(イゼルローン要塞駐留機動艦隊)、司令官ヤン・ウェンリー大将」

2009年02月03日

尼子氏(あまごし)は、京極氏の一族

尼子氏(あまごし)は、京極氏の一族で守護代。山陰地方で活動し、戦国大名となった一族である。「あまこ」とも訓まれる。

宇多源氏佐々木氏の流れを汲む京極氏の支流。南北朝時代の婆娑羅大名として初期の室町幕府で影響を持った佐々木高氏(道誉)の孫、高久が近江国甲良荘尼子郷(滋賀県甲良町)に居住し、名字を尼子と称したのに始まる。室町時代には高久の次男、持久は宗家京極氏が守護を務める出雲の守護代として同地に下向して月山富田城(現在の安来市広瀬)に拠り、出雲と隠岐の守護代を務めて雲伯の国人を掌握し、次第に実力を蓄えていった。
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応仁の乱では東軍に属し、15世紀末に守護代を継承した持久の孫経久は若い頃に一度守護代を剥奪され富田城を追われたが、不在の守護京極政経にかわって出雲の支配権を奪取し、尼子氏を戦国大名に発展させた。嫡男の尼子政久が合戦にて討ち死にし、三男塩冶興久が出雲西部・南部及び備後の有力国人と結託して反尼子勢力として反乱を起こし、鎮圧し首を取るなど子との関係には色々因縁があった様である。主家の庶流とはいえ守護代から成り上がった経久は山陰を中心に勢力拡大に励み、地の利を生かし出雲鉄の事業開発を行い、孫の尼子晴久の時代には山陰・山陽八ヶ国約200万石を領する大大名にまでなった。ただし、これは尼子氏に限ったことではないが、実際の勢力圏ではなく形式的な主従関係を結ぶ土豪などが存在した範囲と思われる(主に美作後藤氏や石見小笠原氏等)。しかしながら、当時の大内氏と対等な勢力図を築いていたのは事実である(この当時の毛利氏は尼子、大内の2大勢力に比べるとまだまだ弱小であった)。

晴久の晩年には、自らの中央政権から離れ、更には出雲に多くの直轄地を持つ独立集団である新宮党を率いる経久次男尼子国久・誠久親子を滅ぼす(毛利氏による謀略説もある)などで中央集権化を図り、尼子氏の勢力を強いものにしようとした。しかし大内氏を滅ぼした安芸国の戦国大名毛利元就の石見東部への侵攻を受けるようになり、その応戦中に晴久が月山富田城にて急死。晴久の急死という最悪な事態を引きずったまま、晴久の子義久は毛利氏の攻勢に耐えきれず、永禄9年(1566年)に月山富田城を包囲する毛利氏に降り、戦国大名尼子氏は滅亡した。

その後、尼子氏の遺臣である山中鹿介や立原久綱らは尼子一族の尼子勝久を擁立して織田信長の援助を受けながら各地で抵抗し、一時は城を得て尼子氏を再興するが、天正6年(1578年)に播磨国上月城を毛利軍に落とされて勝久は自害し、鹿介は殺されたため、尼子氏は完全に滅亡した。一方、義久とその兄弟は毛利氏に降った後安芸に送られて配流生活を送り、子孫は関ヶ原の戦いの後に毛利氏から知行を給されて長州藩に仕えた者、水戸藩に仕えた者などがいる。

義久は、慶長15年(1610年)8月28日、長門で死去(享年71)したが、毛利家の意向により、養子の尼子元知(弟の倫久の長男)が尼子氏を継ぎ、尼子氏は代々系譜し存続する。

1940年に最後の当主・寅介が嗣子なく東京・高輪の毛利家別邸で亡くなったため、尼子高久から続いた尼子氏は断絶した。ただし、寅介とは別に佐佐木甚五朗・忠雄系統を尼子宗家とする説もあり、そちらの系統は現在も残っている。

また、義久の直系の子孫は、毛利の重臣福永氏として、末代まで残る。 尼子氏の拠点であった福永要害の所在地名である、現広島県神石郡神石高原町福永から、福永姓を名乗った。 昭和末までは、山口県防府市で在住が確認されているが、現在の所在は不明である。

また、幕末の長州藩士来島又兵衛政久は、尼子経久の子・森親久を祖とする来島(きじま)氏の末裔とされる。

尼子氏の面影は安来市立歴史資料館や当地の史跡、墓などでうかがい知ることが出来る。

尼子姓の由来について一つの伝説がある。始祖が天女との間に子供をもうけ、やがて子供は天女の子供という意味から、天子(あまこ)という姓を名乗るようになる。しかし京にいる天子様(天皇)と同じ字は恐れ多いと、読み方はそのままに尼子という字に改めたという。宿敵である周防の大内氏が、百済の王族琳徳太子の末裔を称しており、これに対抗し自家の家格を上げる為の創作と思われる。

*「佐々木」ではなく「佐佐木」が本来の近江の姓。

尼子氏概要
尼子氏歴代当主
尼子高久:京極高秀次男。刑部少輔
尼子持久:出雲守護代。兄は近江国に住した尼子詮久
尼子清定:出雲守護代。美保代官
尼子経久:尼子氏4世。出雲守護代。主君 京極政経を追放し事実上の守護に。
尼子晴久:尼子氏6世。尼子政久嫡男。経久嫡孫 山陰山陽八ヶ国守護となり尼子氏最大勢力図を築いた名君。
尼子義久:晴久嫡子。 尼子氏滅亡時当主。
尼子元知(久佐元知):倫久子。義久養子。
尼子就易(佐佐木就易):宍道就兼子。元知養子。
佐佐木広高:宍道元兼(就兼の兄)次男。別名氏久。
佐佐木元氏:広高嫡子。別名は光久。
佐佐木時久:元久嫡子。実子無し。
佐佐木就清:栗屋常方の次男。別名胤久。時久養子。
佐佐木房高:就清嫡子。別名紀久。娘の於満志に婿を迎える。
佐佐木元久:宍戸房純次男。別名鎮久。婿養子。天保12年3月16日没。
佐佐木親辰:元久嫡子。別名実久。明治27年10月17日没。
佐佐木道介:親辰養子。明治40年5月11日没。陸軍士官学校の教官を務め、東京の麹町に居を構えていた。また鉛筆画に通じ、明治19年?22年にかけて鉛筆画の指導書『鉛筆画独学』を連載刊行した。
佐佐木寅介:道介養子(道介の子、董久の子か?)。諱允久。昭和10年4月21日、東京高輪の毛利家別邸で逝去。これにより尼子氏嫡流は絶えたとされる。佐々木尼子家によって伝来され、寅介が旧蔵していた戦国尼子氏関連文書群『佐々木文書(佐々木寅介文書)』は尼子氏研究の上での重要史料である。佐々木尼子氏断絶もあり、現在『佐々木文書』の原本は行方不明となっているが、東京大学資料編纂所が大正5年・昭和12年の二度にわたり山口県吉敷群平川村(現山口市)の寅介邸にて調査し作成した影写本により、その全内容(全237点)を知ることが出来る。

また上記の経歴の説明のように以下の二人は、寅介の家系とは別に尼子氏本宗を称する家系もある。

佐佐木甚五郎:明治38年9月13日没
佐佐木忠雄:昭和14年3月16日没 二人の子息がおり、現在香川県高松市に在住。
※現存する資料の考察から、道介と甚五郎、寅介と忠雄は別人物と考えるのが妥当であろう。佐佐木甚五郎より前代の家系が定かでないので、どちらが真の尼子氏本宗であるか判断するに至っていない。寅介系が第15代・第16代と二代続けて養子継承であることからして、佐佐木甚五郎系は血縁的な嫡流を意味しているのかもしれない。佐佐木甚五郎系が、寅介没による本宗断絶後、佐々木尼子氏の祭祀を引き継いで、実質の尼子氏嫡流を継承しているとも考えられる。後報を待ちたい。

尼子再興軍当主
尼子勝久:尼子国久の孫。尼子誠久の四男
尼子氏は大名としては滅亡しているが、囚われの身とはいえ、当主尼子義久は健在であり、尼子勝久は当主ではない。

尼子氏一門
尼子政久
尼子久幸
尼子国久
塩冶興久
尼子清久
加藤政貞
尼子誠久
尼子豊久
尼子敬久
尼子通久
尼子氏久
尼子常久
尼子倫久
尼子秀久
尼子吉久
尼子季久
尼子勝久
 ┃  
清定
 ┣━━┓
経久 久幸
 ┣━━┳━━┓
政久 興久 国久
 ┃  ┃  ┣━━┳━━┓
晴久 清久 敬久 豊久 誠久
 ┣━━┳━━┓     ┣━━┳━━┳━━┳━━┳━━┓            
義久 秀久 倫久    氏久 吉久 季久 常久 勝久 通久

尼子氏主要家臣団
「尼子氏家老衆」

亀井永綱 
亀井安綱 
亀井秀綱 
亀井茲矩 
立原幸隆 
立原久綱 
佐世清宗 
佐世正勝
佐世元嘉
牛尾久清
牛尾幸清
牛尾久信
多胡忠重
多胡辰敬
川副久盛
川副常重
中井久包
「尼子氏奉行人衆・晴久期に取り立てられた将」

本田家吉
本城常光
横道正光
秋上久家
秋上綱平
津森幸俊
森脇久仍
平野久利
目賀田幸宣
「立場不明瞭な家臣」

山中勝重
山中幸満
山中幸盛(鹿介)
山中満幸
宇山久兼 宇山飛騨守と同一人物か?
宇山誠明 義久幽閉先での同行人筆頭

2009年01月20日

紙やキャンバスや壁などの支持体

絵画(かいが)は紙やキャンバスや壁などの支持体に絵具を塗布、定着させて描くことによる表現形式あるいはその作品。

キャンバスあるいは板に描かれた油彩画とテンペラ画、フレスコなどで描かれた壁画を指す。 広い意味では紙の上に岩絵具で描かれた日本画や、水彩画も含まれる。 「タブロー」は絵画のうちから壁画を除く作品を指す。

図画(ずが)は、小学校の教科に図画工作(中学校以上では「美術」)があり、「絵画」の代用のように使われることもあるが、絵画のほかに素描(デッサン、スケッチ)、イラスト、版画など、かなり広い範囲を含んでいる。法律文書では「文書図画」のように文書と対に使われ、写真や記号など「絵」に限らないものも含む、図像一般を指している。なお、絵画に関する学問は画学と称される。

絵画の誕生を、およそ2万年前のラスコー洞窟の壁画から解説する教科書が多い。そこに描かれているものは現代の視点から見ても「絵」と呼ばれるにふさわしいものである。

しかし、芸術の概念が産まれるのは少なくともルネサンス以降のヨーロッパにおいてである。 1648年、ルイ14世がパリにフランス王立絵画彫刻アカデミー(Académie royale de peinture et de sculpture)を設立する。1666年には、その分室とも言うべき在ローマ・フランス・アカデミー(Académie de France à Rome)を設けて、当時のイタリアに集まった美術を学ばせた。 このころ「絵画」を定義するのは容易であった。すなわち、「キャンバスに油彩を施したもの、すなわち油彩画と水彩画、公の展覧会(サロン)において認められている手法により広まった限られた媒体による創作物である。
ハンド パーム ドシア バンス ソルト オース サイバ レスト ソナー プラハ デイする 未来の喜び 足跡 せきりん シーツ 金乃竹 ブルーロー ダンエス サイエン パネル 風の華 ファイア レーション フレット リファレンス マルチーズ キールサエ ヤグルマ草 平核無柿 バイバイ オースチン はそく トウヒ ラスト フレーク ヒストリー デコル かおう 百の城 イヤー ケイブ ならたけ ワインリス ユーロス 沖の石 クイック たてじま なみがさね 汽車ポッポ モノローグ

油彩画の初期には板絵があり、油彩以前にはテンペラ画もあった。また額に掛けて壁に飾るのは新しい形式であって、古くは壁に直接描いていたものである。 そういった古いものも絵画として認識するためには、より広い第2の定義、たとえば「視覚芸術のうちで、キャンバスや板、壁など何らかの支持体の上に、絵具、すなわち顔料とそれを分散させ支持体に定着させるための展色剤(メディウム)を混ぜたもの、を筆などにより塗布、定着させて描く手法およびその作品」というように拡張しなければならない。

この定義を厳密に適用すると、漆喰を直接染色するフレスコ画を含むことができない。しかしフレスコ画も広い意味では絵画と認識されていた。 絵付けされた壺や絵皿はこの定義に含まれそうであるが、絵画とは認識されていない。 浮き彫り、タピストリーなど染織、ステンドグラスなども絵画ではなく、モザイク画もおそらくは絵画には含まれない。 版画、写真も絵画には含まれておらず、紙の上に鉛筆や木炭、コンテ(Conté)などで描かれた素描(スケッチ、デッサン)は下絵(エスキース)と解釈されるので、これも絵画ではない。
したがって、絵画を広く解釈する場合に、その定義は曖昧なものにならざるを得ない。 注意すべきは、芸術と言う概念を説明する前に、その作品(作品形式)には地域性が反映しているということである。 すなわち最初に絵画という概念が産まれた経緯を見るに、イタリア・ルネサンスの絵画がそのモデルであって、それを西洋美術史に沿って板絵、テンペラ画、フレスコ画と、遡っていったものが絵画の概念の拡張であった。 したがって東洋美術や日本の美術など、ヨーロッパ以外の美術にこれを適用しようとすると、さまざまな困難を伴う。 たとえば東洋美術には書画という言葉があるが、書は絵画ではない。 象嵌、螺鈿などが工芸に分類され、浮世絵が版画に分類されるのはともかく、絵巻物や図屏風、障壁画がはたして絵画に相当するのかどうかは議論のあるところである。また、西洋においても古代ギリシアの壷絵は、前述した壷としての存在性から、絵が独立しているため、これも絵画に近いものである。

いっぽう、現代に向かって絵画の概念を拡張する場合にも新たな困難をともなう。 ひとつは新しい絵画素材や表現手法が出てくることによる。 ともすれば、岩絵具を使って描かれた日本画も絵画の仲間入りをするし、アクリル画やガッシュ、水彩も絵画に含まれる。パステルや色鉛筆で描いても良さそうであるが、これは「ドローイング」(drawing)として絵画とは区別されているようである。切り絵や貼り絵、コラージュはどうなのか。パブロ・ピカソの1912年の作品『籘張りの椅子のある静物』[1]には籘張り糢様の布がキャンバスに直接貼り付けられている。1960年代後半のイタリアのアルテ・ポーヴェラ、同じころの日本の「もの派」の作家たちも、さまざまな素材を作品に用いている。

このために現代美術においては、彫刻に対する絵画の代わりに、「平面作品」という言葉が使われるようになってきた。 しかし、写真や版画が「平面作品」に含まれるのかどうかなど、ますます曖昧な言葉でしかない。 単にそれまでの彫刻と絵画を「立体作品」と「平面作品」と言い替えたにすぎない。 イタリアのルーチョ・フォンタナは1950年代にキャンバスの一部を切り裂くなどの『空間概念』シリーズを制作している[1] 、アメリカ合衆国のダン・フレビン(Dan Flavin)も1960年代から、色の付いた蛍光灯などを壁に取り付けた作品を制作している(Wikipedia英語版でダン・フレビンは「彫刻家」(sculptor)として紹介されている)。 ただし、現代の「平面作品」は、新しい活動として「壁に設置されて観賞できる芸術作品」とも言えるが、これはすでに「絵画」とは別の概念かもしれない。

他の問題は現代美術においての絵画が属する視覚芸術と他との領域が輻輳してきていることである。 ひとつの境界は視覚と聴覚や嗅覚が併用されることで越えられる場合がある。 もうひとつの戦線は純粋芸術と応用芸術の境界の問題である。 純粋芸術の絵画と、応用芸術である挿絵やイラストレーションは別のものとされてきた。 19世紀末のアーツ・アンド・クラフツ運動に始まって、アール・ヌーヴォーに引き継がれるなど、自由意志における純粋芸術と、既存の権勢にとらわれない応用芸術など、その境界線は単に一連の作品群をカテゴリ化するようにしか説明できてはいないことに帰され、モダニズムはこれを峻別しようとしてきた。 1970年代後半になるとモダニズムは力を失い、純粋芸術が他と区別されるものは何なのか、現在その違いを語ることは困難になってきている。