尼子氏(あまごし)は、京極氏の一族
尼子氏(あまごし)は、京極氏の一族で守護代。山陰地方で活動し、戦国大名となった一族である。「あまこ」とも訓まれる。
宇多源氏佐々木氏の流れを汲む京極氏の支流。南北朝時代の婆娑羅大名として初期の室町幕府で影響を持った佐々木高氏(道誉)の孫、高久が近江国甲良荘尼子郷(滋賀県甲良町)に居住し、名字を尼子と称したのに始まる。室町時代には高久の次男、持久は宗家京極氏が守護を務める出雲の守護代として同地に下向して月山富田城(現在の安来市広瀬)に拠り、出雲と隠岐の守護代を務めて雲伯の国人を掌握し、次第に実力を蓄えていった。
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応仁の乱では東軍に属し、15世紀末に守護代を継承した持久の孫経久は若い頃に一度守護代を剥奪され富田城を追われたが、不在の守護京極政経にかわって出雲の支配権を奪取し、尼子氏を戦国大名に発展させた。嫡男の尼子政久が合戦にて討ち死にし、三男塩冶興久が出雲西部・南部及び備後の有力国人と結託して反尼子勢力として反乱を起こし、鎮圧し首を取るなど子との関係には色々因縁があった様である。主家の庶流とはいえ守護代から成り上がった経久は山陰を中心に勢力拡大に励み、地の利を生かし出雲鉄の事業開発を行い、孫の尼子晴久の時代には山陰・山陽八ヶ国約200万石を領する大大名にまでなった。ただし、これは尼子氏に限ったことではないが、実際の勢力圏ではなく形式的な主従関係を結ぶ土豪などが存在した範囲と思われる(主に美作後藤氏や石見小笠原氏等)。しかしながら、当時の大内氏と対等な勢力図を築いていたのは事実である(この当時の毛利氏は尼子、大内の2大勢力に比べるとまだまだ弱小であった)。
晴久の晩年には、自らの中央政権から離れ、更には出雲に多くの直轄地を持つ独立集団である新宮党を率いる経久次男尼子国久・誠久親子を滅ぼす(毛利氏による謀略説もある)などで中央集権化を図り、尼子氏の勢力を強いものにしようとした。しかし大内氏を滅ぼした安芸国の戦国大名毛利元就の石見東部への侵攻を受けるようになり、その応戦中に晴久が月山富田城にて急死。晴久の急死という最悪な事態を引きずったまま、晴久の子義久は毛利氏の攻勢に耐えきれず、永禄9年(1566年)に月山富田城を包囲する毛利氏に降り、戦国大名尼子氏は滅亡した。
その後、尼子氏の遺臣である山中鹿介や立原久綱らは尼子一族の尼子勝久を擁立して織田信長の援助を受けながら各地で抵抗し、一時は城を得て尼子氏を再興するが、天正6年(1578年)に播磨国上月城を毛利軍に落とされて勝久は自害し、鹿介は殺されたため、尼子氏は完全に滅亡した。一方、義久とその兄弟は毛利氏に降った後安芸に送られて配流生活を送り、子孫は関ヶ原の戦いの後に毛利氏から知行を給されて長州藩に仕えた者、水戸藩に仕えた者などがいる。
義久は、慶長15年(1610年)8月28日、長門で死去(享年71)したが、毛利家の意向により、養子の尼子元知(弟の倫久の長男)が尼子氏を継ぎ、尼子氏は代々系譜し存続する。
1940年に最後の当主・寅介が嗣子なく東京・高輪の毛利家別邸で亡くなったため、尼子高久から続いた尼子氏は断絶した。ただし、寅介とは別に佐佐木甚五朗・忠雄系統を尼子宗家とする説もあり、そちらの系統は現在も残っている。
また、義久の直系の子孫は、毛利の重臣福永氏として、末代まで残る。 尼子氏の拠点であった福永要害の所在地名である、現広島県神石郡神石高原町福永から、福永姓を名乗った。 昭和末までは、山口県防府市で在住が確認されているが、現在の所在は不明である。
また、幕末の長州藩士来島又兵衛政久は、尼子経久の子・森親久を祖とする来島(きじま)氏の末裔とされる。
尼子氏の面影は安来市立歴史資料館や当地の史跡、墓などでうかがい知ることが出来る。
尼子姓の由来について一つの伝説がある。始祖が天女との間に子供をもうけ、やがて子供は天女の子供という意味から、天子(あまこ)という姓を名乗るようになる。しかし京にいる天子様(天皇)と同じ字は恐れ多いと、読み方はそのままに尼子という字に改めたという。宿敵である周防の大内氏が、百済の王族琳徳太子の末裔を称しており、これに対抗し自家の家格を上げる為の創作と思われる。
*「佐々木」ではなく「佐佐木」が本来の近江の姓。
尼子氏概要
尼子氏歴代当主
尼子高久:京極高秀次男。刑部少輔
尼子持久:出雲守護代。兄は近江国に住した尼子詮久
尼子清定:出雲守護代。美保代官
尼子経久:尼子氏4世。出雲守護代。主君 京極政経を追放し事実上の守護に。
尼子晴久:尼子氏6世。尼子政久嫡男。経久嫡孫 山陰山陽八ヶ国守護となり尼子氏最大勢力図を築いた名君。
尼子義久:晴久嫡子。 尼子氏滅亡時当主。
尼子元知(久佐元知):倫久子。義久養子。
尼子就易(佐佐木就易):宍道就兼子。元知養子。
佐佐木広高:宍道元兼(就兼の兄)次男。別名氏久。
佐佐木元氏:広高嫡子。別名は光久。
佐佐木時久:元久嫡子。実子無し。
佐佐木就清:栗屋常方の次男。別名胤久。時久養子。
佐佐木房高:就清嫡子。別名紀久。娘の於満志に婿を迎える。
佐佐木元久:宍戸房純次男。別名鎮久。婿養子。天保12年3月16日没。
佐佐木親辰:元久嫡子。別名実久。明治27年10月17日没。
佐佐木道介:親辰養子。明治40年5月11日没。陸軍士官学校の教官を務め、東京の麹町に居を構えていた。また鉛筆画に通じ、明治19年?22年にかけて鉛筆画の指導書『鉛筆画独学』を連載刊行した。
佐佐木寅介:道介養子(道介の子、董久の子か?)。諱允久。昭和10年4月21日、東京高輪の毛利家別邸で逝去。これにより尼子氏嫡流は絶えたとされる。佐々木尼子家によって伝来され、寅介が旧蔵していた戦国尼子氏関連文書群『佐々木文書(佐々木寅介文書)』は尼子氏研究の上での重要史料である。佐々木尼子氏断絶もあり、現在『佐々木文書』の原本は行方不明となっているが、東京大学資料編纂所が大正5年・昭和12年の二度にわたり山口県吉敷群平川村(現山口市)の寅介邸にて調査し作成した影写本により、その全内容(全237点)を知ることが出来る。
また上記の経歴の説明のように以下の二人は、寅介の家系とは別に尼子氏本宗を称する家系もある。
佐佐木甚五郎:明治38年9月13日没
佐佐木忠雄:昭和14年3月16日没 二人の子息がおり、現在香川県高松市に在住。
※現存する資料の考察から、道介と甚五郎、寅介と忠雄は別人物と考えるのが妥当であろう。佐佐木甚五郎より前代の家系が定かでないので、どちらが真の尼子氏本宗であるか判断するに至っていない。寅介系が第15代・第16代と二代続けて養子継承であることからして、佐佐木甚五郎系は血縁的な嫡流を意味しているのかもしれない。佐佐木甚五郎系が、寅介没による本宗断絶後、佐々木尼子氏の祭祀を引き継いで、実質の尼子氏嫡流を継承しているとも考えられる。後報を待ちたい。
尼子再興軍当主
尼子勝久:尼子国久の孫。尼子誠久の四男
尼子氏は大名としては滅亡しているが、囚われの身とはいえ、当主尼子義久は健在であり、尼子勝久は当主ではない。
尼子氏一門
尼子政久
尼子久幸
尼子国久
塩冶興久
尼子清久
加藤政貞
尼子誠久
尼子豊久
尼子敬久
尼子通久
尼子氏久
尼子常久
尼子倫久
尼子秀久
尼子吉久
尼子季久
尼子勝久
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清定
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経久 久幸
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政久 興久 国久
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晴久 清久 敬久 豊久 誠久
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義久 秀久 倫久 氏久 吉久 季久 常久 勝久 通久
尼子氏主要家臣団
「尼子氏家老衆」
亀井永綱
亀井安綱
亀井秀綱
亀井茲矩
立原幸隆
立原久綱
佐世清宗
佐世正勝
佐世元嘉
牛尾久清
牛尾幸清
牛尾久信
多胡忠重
多胡辰敬
川副久盛
川副常重
中井久包
「尼子氏奉行人衆・晴久期に取り立てられた将」
本田家吉
本城常光
横道正光
秋上久家
秋上綱平
津森幸俊
森脇久仍
平野久利
目賀田幸宣
「立場不明瞭な家臣」
山中勝重
山中幸満
山中幸盛(鹿介)
山中満幸
宇山久兼 宇山飛騨守と同一人物か?
宇山誠明 義久幽閉先での同行人筆頭